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【体験記】舞鶴 引揚記念館に行ってきた 

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皆さんおはようございます、こんにちわ、こんばんわ。筋トレ、レッツゴー!です。

今回は体験記です。先日少し時間ができて舞鶴の引揚記念館に行ってきました。日本人として知っておかなければならない歴史の一つがここにあります。

末っ子が映画『ラーゲリより愛を込めて』になぜかハマっていて引揚の舞台になった舞鶴市にあるので行こうとなり引揚記念館に行ってきました。先日記事を書いたドライブインダルマも同じ舞鶴市にあるのでその記事も良かったら読んでください。ドライブインだるまから車で20分ほどで行くことができます。

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  • 舞鶴引揚記念館とは?
  • 引揚の経緯
  • 僕が伝えたかった理由

僕も『ラーゲリより愛を込めて』の映画を見て気になっていたので、とりあえず行ってみることにしました。

※「ラーゲリより愛を込めて』は嵐の二宮和也さんが主演を務めるシベリア抑留についての映画です。主人公の山本幡男さんは実在した人物で実際ラーゲリに収容されています。

 

この記事では舞鶴引揚記念館についてブログでお伝えします。

 

舞鶴引揚記念館は京都府舞鶴市にある戦後海外からの引揚についての資料館です。

 

戦後旧満州や朝鮮半島、南太平洋など多くの地域に約660万人の日本人が取り残されました。その方達を早急に日本に帰国させなければならず「引揚」が開始されました。最終引揚船「白山丸」の入港まで国で唯一13年間にわたり約66万人もの引揚者、復員兵を受け入れました。

舞鶴引揚記念館は昭和63年4月に舞鶴市民や引き揚てこられた方々をはじめ全国の様々な方のご支援、ご協力によって開館し再び繰り返してはならない「引揚」の史実を未来に伝え「平和の尊さ、平和の祈り」のメッセージを発信しています。

引用舞鶴引揚記念館ホームページより)

場所は京都府舞鶴市字平1584番地

開館時間 9:00〜17:00

休館日 12月29日〜1月1日 毎週水曜日(祝日の場合は翌平日)

 

この記事を読むことで、引揚の歴史がわかるようになります。日本人として本当に大事なことなので読んで欲しいです。

 

引揚の経緯

満洲国建国

世界恐慌が起こり日本経済は低迷します。特に農村部は経済的に困窮します。日本は中国北東部に満洲国という国を建国します。皇帝は映画『ラストエンペラー』で有名な宣統帝溥儀です。

世界恐慌の影響から経済が低迷した影響から日本は満州への移住計画を推進します。計画段階では500万人を満州に送る予定でした。第二次世界大戦の影響などで最終的には32万人程の移住者が満州へ渡りました。

場所はここです。

商売をする人たちは首都の新京などの都市部に移住しましたが日本の農村部出身の方達は農業をするために郊外で農業をすることになります。中国やソ連の国境近くというのがポイントになってきます。

日本が世界恐慌から脱出するために行った計画はなぜは欧米列強から痛烈に批判されます。個人的な意見ですが欧米列強はアフリカで奴隷貿易を行い、アメリカでネイティブの人たちを迫害し、オーストラリアでアボリジニーを迫害し東南アジアを植民地支配し好き勝手やってきましたが日本が同じことをするとどうやら気に食わないようです。

※日本が併合した朝鮮半島や台湾、太平洋の島々はインフラ設備を整えて現地に学校を建てて教育を行っています。欧米はそのようなことは一切していません。

終戦と引揚

1945年8月9日、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄し日本に侵攻してきました。終戦後もソ連は侵攻を続け北方領土まで軍事制圧をしました。その過程でソ連軍は日本の捕虜や民間人の苛烈な強姦や虐殺が行われました。やってることは現在のウクライナ侵攻と何ら変わりはありません。

明治以降の近代化の中で、日本は台湾と南樺太(サハリン)を領有し、中国東北部(満洲)に権益を獲得、さらに朝鮮半島を併合しました。また第一次世界大戦でも戦勝国となり、南洋群島を委任統治領としました。昭和期に入ると、日本は中国大陸から東南アジア・太平洋方面へとさらに勢力を拡大し、大東亜共栄圏を構築しようとするなど、海外に多くの領土や支配地を抱える帝国を形成しました。しかし第二次大戦の敗戦の結果、その一大帝国が崩壊し、海外にいた約660万人(当時の日本人口の約9%)の軍人・軍属と民間人がいっせいに日本本国への引き揚げを余儀なくされました。



タレントの坂東英二さんも満州からの引揚者です。著名人の中にも引揚者の方は多くいます。

 

 

 

 

シベリア抑留

ソ連軍に連行された日本兵の捕虜や一部の民間人は「ダモイ(帰国)させてやる」と言われ強制連行されています。これがシベリア抑留です。約60万人もの日本人がソ連の衛星国に連行されています。

シベリア抑留された主な理由は2つあります。

1つは対ドイツ戦で不足した労働力の確保。もう一つは第二次世界大戦で遅れていた極東の開発でした。この2つを補うのに日本人の捕虜は打って付けでした。

シベリアでの生活は過酷を極めました。冬場にはマイナス40度にもなるほどの寒さ、木の伐採や運搬、建物の建設。食事は黒パンが一日一枚。寒さと栄養失調により多くの人が命を落としました。終戦時夏だったため日本の捕虜は夏服しか持っておらず冬服はソ連が日本の倉庫から略奪した冬服を配りましたがソ連からの支給はありませんでした。

 

 

引揚記念館の様子

入って正面には「ラーゲリより愛をこめて」のポスターがあります。映画監督の瀬々敬久さんは実際この記念館に足を運んで見学されたそうです。

大きな資料館ではありませんが3つのフロアがあってラーゲリの家の再現部屋、資料室2つに分けられます。

生活再現した部屋があります。2枚目の画像は少しぼやけていますが就寝時が再現されています。これは収容者に登山家がいて頭と足を隣の人と反対にして寝ると熱が逃げにくいためこのように寝ていたそうです。

日本に送られた手紙や葉書などは残っていますが、収容所内での日記や手記はスパイ容疑がかけられるるためほとんど残っていないそうです。

 

 

僕が伝えたかった理由

僕が伝えたかった理由が語り部の存在です。僕たちに実体験者の話を聞ける時間がもうほとんど残されていないということです。

記念館には常時2人の語り部の方がいます。僕たちが行った時は3人いらっしゃって2人から話を聞くことができました。語り部の方はいずれも引揚経験者です。

男性の方と女性の方の話を聞くことができました。

男性の体験談

男性の方をAさんとします。Aさんは昭和15年生まれで朝鮮半島からの引揚だったそうです。お父様が慶應義塾大学出身の教師で朝鮮で教員をしていたそうです。当時の生活は裕福で大きな家にも住んでいたそうです。戦争に負けて日本に戻ることになり最低限の荷物だけ持って家を出たそうですが自分の家や近所の家をずっと見ている現地人が大勢いたそうです。家の持ち主が家を出なければならないことがわかっていて家主が出たら最初に入った人の物になるのでみんな家を狙っていたそうです。港までの道中幼い子供が亡くなっていくのも何度も見たそうです。また船で日本へ着くまでにも幼い子供が亡くなったそうです。その当時Aさんは5歳でした。「移動できる体力があるギリギリの年齢でもう少し若かったら命はなかったかもしれない」とおっしゃっていました。

舞鶴に帰国して引揚者にふかし芋が提供されたそうですがその時の味は今でも忘れられないくらい美味しかったとおっしゃっていました。全ての財産を朝鮮半島においてきたから帰国してからの生活は苦しかったとおっしゃっていました。教員だったお父様が帰国して間も無く結核のため亡くなったそうでそれからは食べるのもままならない生活が16歳まで続いたとおっしゃっていました。

 

女性の体験談

女性の方をBさんとします。Bさんも昭和15年生まれ。Bさんは満洲国からの引揚体験者です。Bさんのお父様は事業をしていて裕福な家庭だったそうです。現地の使用人も雇っていたと伺いました。当時の満州には「日本人の子供は言うことをよく聞いて頭もいい」というのが常識で人さらいが多かったとおっしゃっていました。両親からは夕方以降は外には一人で出るなとよく言われていたそうです。

Bさんも戦争が終わって全ての財産を放棄して引き揚げたとおっしゃていました。Bさんの両親は現地の人を差別することなく接していたので終戦後家を出る時略奪等はされませんでしたが、不当な扱いをしていた日本人は略奪などがあったそうです。Bさんも港に着くまで幼い子供が多く亡くなったのを見たとおっしゃいました。

語り部の年齢の限界

引揚のことを話ができ且つある程度記憶が残っているのが当時で4歳以上の方だと伺いました。AさんとBさんにも話を伺いましたが「当時のことを事細かには覚えていないけどある程度は覚えている」と。実際自分たちのことを思い出しても4歳以前の記憶はあまりないと思います。お二人は共に昭和15年生まれで現在85歳です。一番若くて語り部ができる年齢が85歳前後なので実体験の話を聞ける時間があまりないのが現状です。

 

 

 

まとめ(舞鶴 引揚記念館に行ってきた)

この記事では舞鶴 引揚記念館をブログでお伝えしてきました。

 

40歳以上の方ならわかるかと思いますが僕たち40歳前後の世代は戦争体験者の実体験を聞けるギリギリの世代です。祖母は「出征する同級生や近所の友人を駅で見送った」や「男手がいないので畑仕事や田んぼ仕事は女性の仕事になった。その時B29が飛んできて逃げた」など話を聞くことができました。

僕たちの子供の世代は出兵はしなかったけど戦争を体験した方の話を聞ける最後の世代になってしまっています。

両親に引揚記念館に行ったことを言うと「近所のあの家のお爺さん(すでに他界されてます)はシベリアから帰ってきた。昔いた会社の社長はシベリア抑留されていた」と話をしてくれました。引揚者は身近にいたんだなと思いました。

 

人生は自分のためにあるのでやりたいことはしていいしするべきだと思います。でも今の日本が平和で自分のしたいことができるのは先人たちの尊い犠牲の上にあると言うことを少し頭の片隅に置いといて欲しいと思います。

人類に永遠の平和を。

ではまた!